亡くなった父に関するあるエピソードについて、以前家族と語り合う機会がありました。そのとき一番驚いたのは、私や他の家族の記憶がおのおの違っていたこと。
熟れた桃を強く握ると、その人の指の形に跡を残すのと同じ。私のと彼らの指の形は違うのです。そして誰も触らなかった桃には二度と戻らない。
『アイ, トーニャ』の最も優れた点は、無意識意図的に関わらず、記憶は人によって違うのだと念頭に置いたこと。
食い違う話もそのままにインタビュー形式のスタイルを挟んで、ドラマはリズミカルに当時のヒットソングを散りばめスタイリッシュに「羅生門」をキメる。
この映画の存在を知ったときは、20年以上前の事件をなぜ今さら?と正直思ったのだけれど、観れば「なぜ今だったのか」充分納得できました。ショーンの実家の壁に貼られたレーガンのポスターをトランプに換えれば見事に合点がゆく。まさに「今もここにある」状況と、ある意味普遍的な人間の剥き身の姿。
製作者は「ケリガン襲撃事件」の真相を明らかにする気はありません。
今作の凄さは、誰がどんな楽しみ方でもできるよう多角的に構成されていることに尽きます。
濃いキャラクターの登場人物、キャストの見事な演技、安全地帯から眺める貧困やクズの連鎖と人生の崩壊。しかもすべて実話に基づくという驚き。オシャレなBGMが常に流れる演出と小気味よい編集、そして、どうやって撮ったのかと思わせるスケート場面の大胆なカメラワーク。事件はおろか、トーニャ・ハーディングを知らなくても一気に観客を惹きつけるパワーと魅力に満ちていることに舌を巻きました。
そのうえで、対象となるトーニャとの距離感が絶妙。
母や夫からの暴力に晒され(あれほど自然で流れるように妻を殴る夫には驚きました。本当に一切の無駄を排した動きだった)、唯一のよりどころの「スケート」からも拒絶されるトーニャを見て同情しそうになる、と、すぐさま彼女が第四の壁を越え、もしくはインタビュー画面から観客に話しかける。
トーニャを魅力的に描きながらも、過剰に感情移入させないよう配慮された脚本には恐れ入ります。
昔からのフィギュアスケートファンである私は、当然この事件のことを知っています。どころかその後なにかで読んだのかどうか、彼女が同居していた腹違いの兄から性的虐待を受けていたことまで覚えていました。
伝記映画の宿命として、エピソードはかならず取捨選択されます。この作品はあのテンポとコメディタッチに舵をとるため、かなり絞り込んだからこそ、これほどの話題作ヒット作になりました。
様々な立場の人間が、どんな風に楽しもうと苦しんだとしてもいいという幅を大きく意識したことの成功。同じ日同じ劇場で観た映画なのに、それぞれ感じることはまるきり違う。
アメリカの闇だの、クズオンパレード最高!とはしゃいでもいい、生まれる環境が悪いとねぇと見下すのもあり、自分の子は愛情深く育てなければと自戒するもよし、多様な意見が出ることこそ製作側にとっては本望でしょう。
まるで私と家族、そしてトーニャと周りの人間の記憶が違うのとまったく一緒です。
そんな映画の演出の鮮やかさに感心しながら、私個人としてはとても手放しには笑えませんでした。
なぜなら、私も当時、トーニャとナンシー・ケリガンを消費した1人だからです。
トーニャは我々を見据えてこう言いました。
「わたしは再び虐げられた。今度は世間にね。アンタたちにね。アンタがわたしを苦しめてる」
ここが私には一番効いた。ぶっちゃけ「これはアメリカだけの暗部じゃねーんだよ、オメーんとこもおんなじだろーが、ファック野郎」というメッセージを受け取ったつもりです。
常にヒーローと悪役を求めるマスコミと大衆。
拡大する経済格差や他に対する人権意識のなさは現在の日本でも恐ろしいほど身近な問題です。
おまけに我が国では、審判に嫌われるどころじゃない、芸術点などと生易しいものではなく女性という一点だけで入試の点数を故意に下げられてるんでっせ!
彼女が本当はどんな人物なのか事件の真相はどこにあるのか、そんなの解き明かされなくてもいい。2018年に生きる我々にとってのトーニャ・ハーディングはある種のリアルなのだから。
それでもなお、ラストでパンチを食らってダウンする彼女と人生最高の瞬間だったトリプルアクセルを重ね、立ち上がらせたことは非常な爽快感をもたらしました。しかも重要な要素として、主人公は女性です。
これほどの映画はなかなかありません。傑作。