とうとうディアナ・ビィシニョーワの「ジゼル」を観ました。
Aちゃん、さんきゅ、さんきゅ!
東京バレエ団の公演に、彼女とボリショイに移籍が決まったばかりという若手のセミョーン・チュージンが客演。
んも~大興奮。
考えたら、ここんとこずっとガラばっか行って、通しで、しかも古典とかって久しぶりだと気がつく。ジゼル全2幕なんてどれくらいぶりでしょう。
久しぶりに観たジゼル、よかったなぁ。これまた直前にゲットしたチケットが2階席だったのだけど、考えればコール・ド・バレエも見どころのこの舞台、むしろ2階席でよかったとも言える。
東京バレエ団は背格好もぴったり揃ってるし、なんといっても一糸乱れぬその踊りには感激しました。これぞ、コール・ド。さすが東京バレエ団。いや~、素敵、素敵、満足。
さて、ビィシニョーワですが、ああ、なんて言葉で表現すればいいのか、生で観る彼女のジゼルは想像以上でした。
特筆すべきは、彼女の身体の内から溢れだすその感情。
それまで自分のイメージするジゼルとは、最初から儚げで壊れやすい、生きてる時から少しこの世の者じゃない、そんな印象を持っていました。
が、1幕の彼女のそれは、ほんまに心臓が弱いんかい、と突っ込みたくなるような生命力にあふれていて「生きてる、私は生きてるのよ~~~そして恋をしているのよ~~~」と叫びながら踊っているような、恋する乙女の喜びに輝いている。
その後、愛するアルブレヒトと身分が違ううえ、婚約者までいると知るや、その喜びが一瞬にして狂気にがらりと反転。
彼女の凄さは、この狂気に説得力があること。
いや、驚きました。様式美としての狂気でなく、またケレンミあふれた狂気でもなく、こんな真に迫ったジゼルの狂乱は初めて観た。その姿からはジゼルの奈落の底にいるような激しい悲嘆が伝わってきて、思わず涙ぐんでしまいました。
正直、ジゼルのこの場面で泣くことがあろうとは思ってもいなかったので心底びっくりです。なんという表現力の凄まじさ。
これだけでも凄いのに、2幕のウィリ(精霊)になったら、ええええ、これが同じ人物かと思わせるほど、本当にこの世の者じゃない。そこだけ重力が完全になくなってる。
そして精霊になった彼女が最後まで守ったアルベルヒトとの別れ。目を伏せ、厳かに舞台を去るジゼルの深い愛情に、静かに感動したのでありました。
ああ、ええもん見たわぁ~。
観劇後、一緒に行ったAちゃんに興奮して喋りまくってて気がついたのですが、同じバレエファンでも見方ってそれぞれ違うのね。
彼女は、自称「肉体美フェチ」。たとえば、素晴らしいダンサーになればなるほど「そのヌードが見てみたい」と心のどこかで思うらしい。
彼女がオペラグラスを決して忘れず持ってくるのは、「その動いている筋肉のひとつひとつを見逃さないため」なんだそうな。そしてエトワールは「顔とスタイルがよくないとダメ」という持論も持ってる。
対して私は、その空間の支配率というか、遠くから見た時にそこから放たれる存在感にひたすら圧倒されたいタイプ。そのうえに、こちらの心を揺さぶるような幅広い表現力があれば、もう無敵。
顔のことなんか(ま、どの一流バレエ団もエトワールになると皆美しい人ばかりですが)気にしたこともなかった。当然素晴らしい技術には、必然的に驚異的な肉体美は備わっているものと考えているから、ヌードを観たいなんて発想は思い付かない。
同じ舞台を観ていても、感じる部分は違うんだなぁと、ちょっと面白かったわ。
しかし、今回久しぶりに古典を通しで観て思ったのだけど、全幕見るって大事ですね。
しかも古典なら古典で、ダンサーそれぞれの個性がとてもよく分ってみごたえがある。
当り前のことですが、あらためて、そう感じさせてくれました。
まさに眼福の極みとはこのこと。素晴らしいひとときでございました。