姜文(チアン・ウェン)の初監督作品。そこにはずっと少年の汗のにおいと北京の埃が漂っていました。青春映画の傑作。
昔から私を捉えて離さないフレーズがあります。
17歳の初夏。
とはいえ、特別17歳の初夏に具体的に思い出があるわけでもないし、むしろ17歳の初夏に自分が何をしていたかなんて、ほとんど記憶になし。ある意味概念でしかない。けれど、あの年齢特有の妙な無敵感と真反対である焦燥感は自分の記憶の底に長らく貼り付いてる気がします。
チアン・ウェンの初監督・脚本作品である『太陽の少年』を観ました。1963年生まれの彼は実は自分と同い年。この作品を撮った1994年時には31歳でした。そう思うとその才能にまたまた圧倒されてしまう。
オープニングは、クレジットに成人になった主人公の声として姜文先生のモノローグ。
おお、31歳。声が若い。
彼は北京の街の変貌を語り、自身の思い出が夢か真実かはっきりしないと語ります。
舞台は70年代文革後期。文化が破壊され尽くし、若者はみな遠くの農村に下放され、政治、経済、社会の混乱に疲弊し切った大人たちしか残っていない北京。しかし16歳の中学生だった主人公シャオチュンは、ひっそり静まり返ったその北京を我が物顔で悪ガキ仲間と授業をサボり、煙草を吸い喧嘩騒ぎを起こしながら闊歩しておりました。
実は彼は、マスターキーを作り他人の家に入ることを楽しみにする一面を持っており、盗みはしないがただ住人のいない部屋にあがりこむことを秘かな趣味としていたのです。ある日、いつものように無断で入った部屋の壁にあった少女の写真に恋をした彼が、やがてその少女と出会い、別れるまでのひと夏のお話。
この年上の少女の登場が素晴らしい。いつものように鍵を開け勝手に上がり込んだところへ彼女が帰宅すると慌ててベッドの下へ潜り込む。と、そこから見える彼女の足元。彼女はスカートを脱いで別の服に着替えると部屋を後にする。その息を詰めるような緊張感に若々しい少女のふくらはぎだけがせわしなく動くシークエンスのエロチシズム。
特出すべきは彼女の歩き方が、ピョコピョコとまるで踊るように軽やかに歩くこと。これがヒロイン・ミーラン役のニン・チン(寧靜/宁静)の元々持ってるしぐさでなく、役のキャラのために加えた個性だとしたら、チアン先生天才すぎます。
とにかくカメラが美しい。卓越したカメラワークは『紅いコーリャン』や『さらば我が愛/覇王別姫』を手掛けたクー・チャンウェイ(顧長衛/顾长卫)。
彼女に恋したシャオチュンが古い洋館の屋根伝いにどこまでも歩いてゆくシーン。
私はいつもここにいた 屋根の上の猫のように
彼女の写真を見て狂わんばかりだ
頭の中を幻のように通り過ぎる
私の中に残った感覚と残り香が
彼女の存在する証
煙草をくわえたまま屋根を歩く少年の姿に、オペラ『カヴァレリア・ルスティカーナ』の間奏曲が流れ姜文の声が重なる。姜文は、この映画の原作ワン・シュオ(王朔)小説『動物凶猛』を脚本として執筆するにあたり、この『カヴァレリア・ルスティカーナ』に大いに触発されたと言います。
そして、少女と知り合い友人として迎え入れられた彼女の部屋の窓から差し込む光の美しさ。その記憶は現か幻か。大人になった主人公の回想する言葉には、そんな疑問も語られます。
一方で、恋する前には、切ない間奏曲と対極をなすような当時中国大陸でガンガン流れていた(と、いうかそれしかなかった)の毛沢東を称える革命歌や「インターナショナル」、ロシア歌曲などがふんだんに使われています。なかでも仲間を殴られたお返しとばかりに敵を急襲する場面で「東方紅」がかかるのには笑っちゃいました。
この主人公シャオチュンを演じたのは、当時18歳のシア・ユー(夏雨)。このデビュー作で彼は、第51回ヴェネチア国際映画祭の主演男優賞、第33回金馬奨でも主演男優賞を獲得しました。
その彼がチアン先生の少年時代にそっくりでね。くしゃっと相好を崩す表情とかまんますぎて、ものすごくリアリティがあって、なんだかまるでチアン先生の自伝映画を見ているような気分になるから不思議。現在も俳優を続けすでに40歳になった彼の顔を見るとまったくチアン・ウェンに似ていないのもまた一興。
また嫌な中学校教師役に映画監督のフォン・ガオシャン(馮小剛)、主人公の父親役としてワン・シュエチー(王学圻)も出てきました。2人とも若いぞ。
しっかし31歳で初めて撮った映画がベルリン、台湾の映画祭で賞(主演男優賞)を獲り、1995年のアメリカTIME誌で年間ベスト1選出されるなんて、やっぱチアンさんすごすぎでっしゃろ。
参考エントリー:
精武風雲 陳真 / (邦題) レジェンド・オブ・フィスト怒りの鉄拳 香港BDにて鑑賞、のちに日本語字幕を試写室で―ドニー・イェン 甄子丹